どうも、がーすーです。

 

前回の話の続きです。
情報の量は事柄の起こりにくさによって決まり、
起こりにくい事柄ほど情報量が多く、貴重だと看做せるという話を前回「http://blog.oplan.co.jp/archives/98」にしました。

 

考えてみると、私たちが日常で使うありがとうという言葉は、それを端的に表しています。
有り難い、つまり起こりにくく貴重な事柄だからこそ、ありがたいと感じるわけです。
風が吹くとか道路を車が通るとか、よくある些末なことが起こったとしても、
ありがたいと思うことは滅多にないでしょう。

 

では少し視点を変えてみましょう。
例えば、

一度も面識が無く、あなたが知りもしなかった人からいきなりプレゼントをもらう場合

以前から面識があり、あなたが好意を寄せている人からプレゼントをもらう場合

どちらがよりありがたいでしょうか。普通は後者のはずです。
ですが、有り難さ、つまり起こりにくさという点では前者のほうが優っているでしょう。
つまり、情報量は前者のほうが多い一方で、あなたは後者のほうをより貴重だと捉えているということです。

 

これは、情報理論とは矛盾した認識だと言えます。
その矛盾は、あなたの主観が後者の事柄に対して意味付けをしていることから生じます。
面識の無い他人が相手であれば、その事柄に結びつく感情や記憶は少ないですが、
一方で、面識があり好意を寄せていた人が相手であれば、その事柄に対して
多くの感情や記憶が結びつけられます。その主観を通した結びつけが、あなたにとっての
後者の事柄の意味の量を多くし、情報量で優るはずの前者の事柄よりも貴重だと感じさせるのです。

 

意味の量というのを定義するなら、個人の主観による意味付けの多さ、と言えます。
意味の量は情報量とは異なり、定量化ができません。個人の主観は曖昧でとらえどころがなく、
なおかつ流動的に変化し続けるものだからです。ですが、人が物事の価値を判断する上では、
情報量よりも意味の量のほうが優先されます。人は主観を通してしか物事を判断することができないため、
あらゆる情報は主観というフィルターによってその価値を歪曲されます。

 

コンピュータは駄文も名文も同じ価値として捉えると前回に話しました。
コンピュータは人間と違い、主観を持たないためです。
人間とは逆で、主観のフィルターが無いために、情報の価値を一切歪曲させることができない、
とも言えます。そう考えると、融通が利かないのはむしろ、主観のフィルターによる歪曲から
逃れられない人間のほうだと言えるかもしれません。

 

さらに、コンピュータが主観のフィルターを持たない、という点も、
コンピュータの基本的な性質のみに目を向けた場合に限ります。
例えば、googleやyahooなどの検索エンジンは、インターネットに散在する
無数のWebページから、ユーザーが期待する結果を導き出すという
情報のフィルタリングを見事にこなしています。
これは、意味の量に基づく人間の価値判断に近い処理を、
コンピュータがしているとは言えないでしょう か。

 

次回はこの点について、話したいと思います。