徒然草子365-tsuredure zhoshi SANROKUGO- vol.8

「百万人のために 歌われたラブソングなんかに
 ボクはカンタンに 想いを重ねたりはしない」

12月。
師走です。
有楽町の街路樹がエメラルドグリーンに輝いています。

このくらいの時期になるとなぜか
とたんにポルノグラフティさんの『ヒトリノヨル』をはなでふふーん
と奏でるようになります。

とくにひとりで歩いているとき。

なんででしょ。

笑:)


ほかの歌詞はけっこう記憶にないのですが
出だしのこの小節は忘れません。

あの曲を聴いたのは学生の頃、中学生だったかな、
ワタシに充分な衝撃を与える言葉でした。

たとえば

ワタシたちがこうやってかいている社のBlog
「誰のために」書いているのでしょう。

たとえばワタシ

ワタシは「顔が思い浮かぶ人たち」のことを思って
書き連ねています。
社ブログではありますが、FacebookやLINEにシェアをするし、
まずOPLANの仲間が目に留めるでしょう?

読んでくれる人の顔がぽつぽつと思い浮かんで
『あー・・・こういうこと書くとまた笑われるなぁ』とか
『この人に伝わったらいいなぁ』とか
『これは彼、彼女の目に留まったらうれしい!』とか

おのずと「”誰か”のため」に。

だからこそ「『百万人のため』に表現されるもの」の衝撃ったらない!

「そうか・・・世には百万人にむけたもの、ありふれているのか・・・」

アーネスト=ヘミングウェイというアメリカの著名な作家・詩人がいらっしゃいます。

『武器よさらば』
『老人と海』
『日はまた昇る』
『エデンの園』
『蝶々と戦車』
そして

『誰がために鐘はなる』
For Whom the Bell Tolls

この小説は1936年から1939年まで続いたスペイン内戦が舞台です。
第一次世界大戦に従軍し、時代を見・経験した「目」をもつ彼が
書いたこの作品は、時代を象徴するものでしょう

主人公の男性は、戦略上、重要な任務を与えられた青年。
その任務とは「ある橋を爆破して落とす」という作戦でした。
任務遂行のためゲリラに協力を求めると、そのゲリラにかくまわれていた女性と
思いがけず恋に落ちる…
(ラブストーリーを挟むのは、それが人の生の中でごくありふれているから?笑)
物語がすすむと、戦況も変わっていきます。
敵の作戦も変わり、そのために青年の「重要な任務」も「必要がない作戦」になってしまうのです。
青年自身もその作戦の無意味さを既知です。
ところが_作戦中止の命令はついに青年に報されることなく、決行日を迎えます・・・。
主人公は爆破作戦が「作戦に携わる人の命がけを問うもの」であることを理解していました。
彼は戦況に意味をもたない作戦のために、死に臨んだ作戦を遂行します。
自分以外の仲間を全て逃がして_

『誰がために鐘はなる』

鐘の音は、死者を葬送する響きを指しています。

鐘が鳴るのは死者のため

このヘミングウェイ氏の小説の題名
もともとは16世紀に活躍したイギリスの詩人ジョン・ダン
彼が書いた次の詩から引用されたものです。

人は離ればなれの島嶼ではない
独りきりでいるのではない
人は皆大陸の一部

もしその土が波に洗われると
ヨーロッパの大陸もだんだん狭くなる
さながら、岬が荒波に削られるように
あなたの友
あなたの土地
波に流されてゆくように

誰かが死ぬのもこれに似ている
わが身が削られるのも同じ
なぜならわたしもひとの一部

ゆえに問うなかれ
誰がために弔いの鐘がなるのか、と
それが鳴るのはあなたのため

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの数十年に生きたアーネスト=ヘミングウェイ氏
彼は、戦争の渦中に生きるすべての人のためにペンをとったのでしょうか。

宗教改革の波が押し寄せた近世前夜のヨーロッパに生きた詩人ジョン・ダン
彼は、弔いの鐘の音を耳にするであろう全ての人のために詩作を行ったのでしょうか。


まだずっとずっと年若かったワタシは
「百万人のために 歌われたラブソングなんかに ボクはカンタンに 想いを重ねたりはしない」
と聞いて
たしかに、ラブソングって多い。不特定多数に向けてばら撒かれてるんだ。
こういう恋あるよね、で、こういう辛い思いするよね、で、こういうふうに癒えるのをまつのよ
っていうイージーな共感に「カンタンに想いを重ね」ないぞ!!!っている反逆心?なのかなと思いました。
「恋セヨと責めるこの街の基本構造」
そうか、”作られた多数派”もそのうち”常識”って呼ばれるようになるものね。
とか思いました。
だから「ボク」は「オリジナルラブを貫いて」とうたうのか・・・ってね。

でも年をかさねて、
「百万人のためにうたわれた」ものなんて、ほんとうはあんまりないんじゃないかな
と思いはじめています。

わたしは真剣に書けば書くほど

伝えたい人が限られてきます。

もちろん、もし、何かの偶然で思いもよらない人に伝わって
「想いを重ねてもらえる」なら、そんな幸いなことはありません。

だけれど、書いている間の胸中にも脳裏にも、伝えたい人以外の存在はないものです。

『ヒトリノヨル』がわたしの耳に届いたのは流行もある
当時の流行はあるけれど
鍵と鍵穴のように「ココロの性感帯」にぴったり触れられたからだと思います。

届けたい人へ確かに届けること

その繰り返しが「多くの人に届く」結果になるだけのように思う今夜です。


MORIHIRO